2022年の暮れに、宍粟市のギャラリー田疇さんで個展を開催しました。
自分で伐った樹木での作品制作の展示や、
ギャラリー田疇の裏山から伐り出したヒノキで会期中にゴッホ椅子を公開制作など、
物を見るだけにとどまらないような展示にしたいというのが今回の狙い。
また、宍粟市で薬膳茶を主に活動されているサササさんに、僕の活動しているフィールド(土場)にてお茶になりそうなネタを採取してもらい、会期中に提供してもらいました。
ある程度大きな樹木を伐ることで、何かが始まったような感覚があり、それをキャプションにまとめました。
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棒と容器
考古学の史料によれば、新石器時代から人類の歴史を何万年かたどってみると、人の周囲にあったものは、棒、容器、スポンジ、くし、楽器など一四種類でそれはずっと変わっていない。(註1)
樹木の形がそう変わっていないように、人の周囲にある「もの」も何万年前と本質的にはあまり変わらないというのは、何か人を安心させてくれるように思う。
最近になって、木工、庭師、アーボリスト、樹木医と、意図せず樹木を中心に自分が連環していることに気がついた。
その時々において、材料として認識し、庭の中では生物や装飾物として扱い、また公の場では支障物や環境指標、また守る対象にもなった。
神にも厄神にも、材料にもなる多様な存在である樹木に動かされているのだと考えると、仕方がない。
木の中に棲む動物や菌類と、そうかわらないのかもしれない。
棒としての樹木を伐り、中を刳りぬいて器や盆といった容器をこしらえたり、あるいは割ったり削ったりした棒を組み合わせて人を包む容器としての椅子を作る。まるでムササビやビーバーのようだ。
樹木が木材へ変貌を遂げる瞬間というのは、ダイナミックだ。
木が横倒しになるやいなや、人の関心はそれを材料として扱う。それで何を作るか、に変わる。
材料となった樹木は、生物としての生きた証をそのまま残してはいるものの、静寂そのものだ。
それは原始的で、野生的な感覚を呼び覚ましてくれる。
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ライフワークとして、作品制作は続けていきます。